「現実」主義を越えて

 私は修士論文の最後に、現代日本の政治状況を踏まえて、「節操なき現実主義」という言葉を使いながら、現実の趨勢に流されて、基礎付けられる思想を全く持たずに、場当たり的に対応している有り様を批判しました。



 機会があって、最近、有名な丸山真男の論文「「『現実』主義の陥穽」(丸山真男『現代政治の思想と行動[増補版]』未来社,1964年,pp.171-186)を読んだのですが、そこに書いてあることが、「節操なき現実主義」という言葉で言いたかったことを、見事に言い表していて、かなり納得。



 丸山は、日本社会で使われる「現実」という言葉の特徴として、次の三つを指摘します。



 一つ目は「所与性」です。現実とはつくられていくものという側面があるにも関わらず、与えられたものという側面のみで理解され、既成事実だけが現実と等置されるということです。



 二つ目は「一次元性」です。現実とは非常に多様であるにも関わらず、特定の価値判断のもとで選択された現実のある面だけが「現実」と見做されるということです。



 三つ目は、二つ目とも密接に関係するのですが、「その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、『現実的』と考えられる」ということです。



 ここ数年の日本の政治を巡る語りでは、「現実的に考えれば…」「現実を鑑みると…」という言葉が掲げられて、その他の議論を「非現実的だ」と無効化し、なし崩し的にマッチョな政策が遂行されてきています。しかし、そこで言われる「現実」は、丸山が批判した「現実」主義に他なりません。



 丸山は言います。「『現実だから仕方がない』というふうに、現実はいつも、『仕方のない』過去なのです。」「現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。」と。



 私たちが「現実」を所与のものではなく、創造可能なものであり、これから決まるものだと認識していく必要があることを、丸山論文は明確に示しています。可能態を常に意識し、その可能態の視点から「現実」を吟味し、その「現実」をどう変えていけば良いかを考え、可能態に近づく「現実」を導き出していくことこそ、政治に他なりません。



 9条改憲の議論が盛んです。そこで決まって言われるのは、「現実的に考えれば…」という言葉です。果たして、そんな理由で改憲、ということで良いものかどうか。我々は、「現実」をつくる主体であることを自覚し、可能態へと近づく道筋をもっと真剣に探すべきではないでしょうか。



 丸山論文は1952年の作品。53年も経っているのに、「現実」主義の陥穽から抜け出せないのは、余りにも進歩がなさすぎるでしょう。