「個人の幸せ」と「社会の幸せ」をつなぐ回路

 日経NETで、今春に修了した、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科が紹介されていました。



 現在の社会システム(の問題性)を明らかにしつつ、そうした問題を越える、オルタナティブな社会を構想していくこと、そしてそれを具体化していく道筋をつけられることこそが、社会デザイン論を学んだものに期待される能力に他なりません。



 そうした社会デザインを21世紀社会において行う上で重要なこととして、研究科委員長の北山先生は日経NETでの紹介記事で、「『自分の幸せが社会の幸福につながる道筋を見つける』ということ」だと述べています。



 20世紀型ではない、21世紀型の社会デザインという時、そこには、NPO/NGO、ネットワーク/コラボレーションなど、様々なキーワードが並びますが、そうしたキーワードを包括すると、「個人の幸せ」と「社会の幸せ」をつなぐ回路づくりということになるのでしょう。



 同研究科には2年間在籍したものの、未だに21世紀社会デザインとはどういうもの(であるべき)か、精確に言い切れませんが、北山さんの整理になるほどなと思いました。



 ちなみに、この説明は反転すれば、「社会の不幸」が「個人の不幸」につながってしまっている回路を見つけ出し、不幸をなくしていく道筋をつくる、ということにもなります。幸せを考えるには、不幸せについても考えるべきだということは当然でしょう。

 

 このようにして、社会デザイン論とは何か?と考えをめぐらせばめぐらせるほどに、そのスケールの大きさゆえに、社会デザイン論を学びきったわけではないなと、痛感させられます。今後も研鑽を大いに励まないといけません。。しかし、そうした研鑽が苦痛ではないほどに、この研究は意味深いものだと、私は思っています。

 ここで話は少し逸れるのですが、宮台真司は、教育の使命は、「社会を幸せに生きられて、社会を幸せにできる」人間が増えることにある、と講演で言っていました[宮台真司編『教育「真」論』(ウェイツ、2004年)に所収]。



 私は「公共圏のコミュニケーションの活性化はいかにして可能か?」というテーマを学部時代からの一貫して持っていますが、市民的リテラシー教育を取り上げた修士論文は、(大袈裟な表現ですが)自分の幸せが社会の幸せにつながる道筋を多くの人が見つけられるようになるための教育とはどういうものであるべきかを考えたものだったと言えるのかもしれません。もちろん、その問いの回答としては、まだまだ不十分なのですが…。