「夜と霧」

yorukiri.jpg 1月・2月は、おかげさまで講座のお仕事が多いのですが、移動時間中に何をするのか、というのが、問題になります。



 過去にこのブログでもこのネタについては書いたことがありますが(たぶん)、「仕事をしよう!」と勢い込んでパソコンを立ち上げつつも「うとうと…」というのが、よくある光景。お恥ずかしい話です。。



 そんな中、今日は新幹線の中で、V.E.フランクルの『夜と霧』(みすず書房、1961年)を読み終えました。「デスブームですね」とインターン生に指摘されましたが、そのブームの一環で積読になっていた同書を書庫から引きずり出しました。



 強制収容所体験をした心理学者が、その体験をもとにして「強制収容所において、日々の生活が平均的な囚人の心にどんなに反映したか、という問題を取り扱う」(p.75)同書は、本来精読する「べき」一冊です。しかし、精読モードで向き合うと、今の僅かな読書時間では相当な時間がかかると予測し、ざくざくっと流し読みしました。いつか再読する時がくるでしょう、きっと。



 収容所の囚人についての心理学的観察は、まず最初に精神的人間的に崩壊していった人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまうということを示している。またもはや内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている。(前掲書、p.171)



 同書では、無力感の学習に関する示唆深い記述が多いのですが、「なぜ無力感に陥ったのか?」という問いと同時に、「なぜ無力感に陥らなかったのか?」という問いがセットになっています。上記引用は、後者の問いへの応えとして提示されています。



 実存主義的な色合いが強いですが、「精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度」(前掲書、p.166)に大きな意味を見出しています。それを支える「拠り所」が一体どういうものか。同書の中でも議論されていますが、「はて私はどうか?」と考えさせられます。



 巷での安っぽいスピリチュアリティ・ブームにはうんざりしていますが、フランクルの言う「内面的な拠り所」の源こそ、個々人にとってのスピリチュアリティであるように思います。



 そのためには、日々の思索と多くの体験と深い交流の中で、自分を確立していくことが求められているのでしょう。



 われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならいのである。(前掲書、p.183)



 実に深い投げかけです。私の人生の意味は、軌跡のように振り返った時に浮かび上がってくるものだとすれば、一瞬一瞬をいかに生きるか、本当に大事に思えてきます。