「松坂世代」として。

 今日、26歳の誕生日を迎えました。「えぇっ、まだ26歳?」とよく言われますが、正真正銘の26歳です。これでも(!?)、最近はようやく実年齢と見た目年齢が近づいてきたなぁと、自分でも思います(笑)



 92年に初めての市民活動をして、95年にはアドボカシー活動で挫折。99年にはNPOでの事務局次長になり、00年にはNPO法人の副理事長。01年にはマネジメント研修の講師デビュー。02年には区役所でも働き、04年には専門学校の講師、06年には大学の非常勤講師にもなった、とプロフィール紹介されれば、多分若く見積もっても30代半ばが普通に思い浮かぶ像でしょう。(何度も言いますが、今日で26歳になりました)



 昨日、職場で「若作りじゃなくて、老け作りしてるんちゃうか」と指摘されましたが、無意識にそうしてきたのかもしれません。20歳の誕生日に、ある先輩から「二十歳を越えたら、自分の顔に責任持ちなさい。」と言われたことがあります。顔にはどのように生きてきたのか、生きていこうとしているのか、それが出るということです。



 では、26歳の僕の顔はどういう顔をしているか。去年の僕の顔といまの僕の顔は、この一年をどのように生きてきたことを刻印しているのか。



 じーっと、剃り残しのひげが目立つ顔を見て考えました。ぱっと答えは出ませんが、「まだまだチャレンジできるんちゃうの?」と鏡の向こうの自分に言われてしまいました。



 僕は1980年生まれ。世間では、「松坂世代」と括られる年の生まれです。「松坂世代」として括られるほどに、まだ僕は活躍しきれていませんが、年齢としては、同じ括りです。下の名前は同じですし(由来も同じ)。



 その松坂は、これまでの実績をもって、大リーグへのチャレンジをするわけですよね。じゃあ、僕はどうするか、考えさせられます。26歳の一年間をどう生きるか、その決断を早くにして、もっと「すっきりした顔」で、それでいて「覚悟を決めた顔」にならんとあきません。



 そのように思った26歳の一日目でした。



 惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。(コリント? 9:6-7)