果たすべき責任のあて先は誰か?

 昨日・今日と或る学生主体のイベントの補助スタッフをしました。学生時代に様々なイベントの責任者やスタッフをしていた身としては、どこか「懐かしい」気分になるものです。



 通常、イベントが終わると、心地よい疲労感と「祭りのあと」の何ともいえない哀愁感を味わうこととなるものですが、今回はそうしたものを味わえないままでいます。



 それも学生スタッフの動きに対して、多くの疑問を持ち、憤りを感じてしまったからです。



 現場で自分の目の前に「解決すべき事柄」があるのにも関わらず「これは別部署のことなので、わかりません」「スタッフマニュアルに書いていない仕事だ」「私はどうしていいのか分かりません」といった言葉が学生からは発せられ、解決に向けて、動こうとしないのです。



 自分の目の前での出来事なのに「わからない・知らない」ということ、「動けない」ということに、問題を感じないのでしょうか。それが当然という感じの学生もいました。



 また、あるセクションの統括に「○○に十分手がまわってないあから、君のセクションの手があまっているスタッフに協力させては?」との僕の提案に「それは別部署の仕事で、うちの仕事ではないです」との一言。

 

 びっくりするくらいの「縦割り」です。



 仕事の分割と権限移譲、スタッフ間の情報共有、ユニット編成…と様々な方法の誤りが以上のような、「縦割り行政」を生み出してしまっています。



 ほんの一部の学生には、ついつい「君らは何をしたいの?自分の部署の仕事を完遂すれば、それでいいの?イベントの成功じゃないの?だったら、もっとすべきこととかない?部署を超えて、協力しあえないの??」と畳み掛けてしまいました。



 「縦割り行政」を支えている哲学は「責任の最小限理解」です。自分が果たすべき責任を最低限レベルで捉え、「言われたこと」の遂行に終始する。それは「保身」のためでもあります。「言われたこと」以外のことに手を出して、いい結果を出せるかもしれないけど、もしミスしたら…だったら、やめておこう。そうした思考回路です。



 「自らの責任は拡大解釈せよ」、僕はお師匠さんの一人にそう教わりました。 



 誰かに与えられた業務だけではなく、望ましい成果の実現に自分がコミットできる部分すべての業務を「自分の仕事」として捉えること。もし改善すべきことや取り組むべきことを知ってしまったら、そこから逃げずに「知ったものの責任」を全うすべし。そのように注意され続けました。



 「果たすべき責任」は誰に対して果たすものかを考えれば、「責任の拡大解釈」は当然の結果です。「果たすべき責任」のあて先は、自らの上司であったり、実行責任者でしょうか。否、それは違います。



 どのような業務であっても「果たすべき責任」のあて先は、参加者や利用者、つまり顧客に対するものです。「誰の顔みて仕事してんの?」とは、会社などでよく聞かれる言葉だと思いますが、顧客にとって望ましい結果を導き出すためにすべきことは、与えられた仕事だけで十分、ということは、まずないでしょう。だから、「拡大解釈」して、動くことが求められるのです。



 もちろん、闇雲に現場判断をして動けばいいというわけではありません。状況に応じて、欲しい情報を保有しているスタッフと連携をとりながら、臨機応変に動き、その結果を自分の現場判断によって影響を受けることとなるであろうメンバーと情報共有する。それが大事なのは当然ですが、勝手に動くことで混乱を招くこともありますし、現場で判断することをさけるべき事柄もあります。



 自分自身もまだそのあたり、完璧というレベルでは全くありませんが、責任を拡大解釈した後、判断をどのように下すのかは、現場経験がものを言う世界でもあります。



 その意味では、大きなイベントで高度なスタッフワークを実現するためには、いきなり本番ではなく、事前に小さなイベント経験を積むなどして、スタッフ間の仕事をする上での信頼関係を育みながら、現場判断力を磨くことが必要でしょう。



 イベントに限らず、どのような事業においても言えることですが、質の高い事業を実現するには、その事業の準備を入念にするだけでは不十分です。スキルやモラル、責任感を育む、スタッフ能力開発も必要となります。



 そうした能力開発の機会を「組織として」きちんと提供していくことが、たとえ組織が縦割りであっても、縦割り業務を生まないといった結果を導き出します。(もちろん組織デザインを変えられると一番いいのでしょうが)



 今回、僕が大人気なくまくしたてた学生さんらには、いくつか来年に向けて改善すべきと僕が思ったことを伝えました。それをどのように受け取り、反映するのかしないのかは、学生さんの判断です。



 しかし、これは社交辞令ではなく本心から、せっかくやるんであれば、「よりよいもの」を実現して欲しいですし、そのための改善を積み重ねて欲しいと思っています。



 問題があるなぁと僕が思った学生さんも、必死にひたむきに、自分の力や時間を惜しみなくは出しています。だからこそ、その努力はよりよく用いられて欲しい。そう思わざるを得ないのです。