「何を」ではなく「誰と」

 この日は、午後から京都アートフリーマーケットコンソも共催団体)へ顔を出してから、大阪で行われる産学連携関連の会議へ出席。会議が夜遅くに終わったということで、大阪で(遅めの)晩飯をとることにし、学部ゼミ時代の友人と一緒にお食事へ。



 少々、唐突な感じの引用になりますが、石川准は『見えないものと見えるもの』という本の中で、どういう行為がセックスである/ないかの判断は、「どのような行為なのか」ではなく「誰と誰の相互行為なのか」によって決まると考えてはどうかという提案をしています。



 「何を」ではなく「誰と」が、当人にとっての行為の意味を左右するというのは、一般的な感覚に照らして、至極当然なことではあります。



 友達との飲み会で、お酒を美味しく感じながら、やはり飲み会もまた「誰と」が大事だなぁと改めて思いました。同時に、そうした行為の意味を左右する他者に、一体自分がどれだけなれているのか、少し問い直してみたりもしました。



 「飲み会=愉しいもの」という行為の定式でもって、自分もよく誘ったりしてしまっていますが、自分が誘う相手にとってどういう他者なのか、よく吟味しなければいけませんね。



 もちろん、関係性は行為の中で育まれていくものですから、最初から行為の意味を左右する他者に自分がなれるわけではなく、「とりあえず」するという部分も必要になります。そうでなくては、人間関係は固定化/縮小化してしまいますから。



 このバランス感覚、大切にしたいものです。