『ことばは届くか』

 最近、上野千鶴子・趙韓惠浄(佐々木典子・金賛鎬訳)『ことばは届くか−韓日フェミニスト往復書簡』(岩波書店、2004年)を読了いたしました。非常に刺激的な一冊でした。



 サブタイトルの通り、二人のフェミニストの「気まま」な、それでいて「思索深遠」な往復書簡なので、取り上げられるテーマは多岐にわたります。各自の知的自分史を手掛かりにそれぞれの地域でのフェミニズム運動の展開過程について述べているところもあれば(→冷静になって自分の運動が何をもたらしたのか/もたらせなかったのかも述べています)、「現代」へのフェミニズム的接近をそれぞれが試みるところもあります。



 そんな中で、私も多くの部分で刺激を受けましたが、以下の部分は、特に印象に残った6つの箇所の一つです。(趙韓惠浄さん執筆部分) 社会学的に「現代」の教育のあり方を述べると、こうした語りになるのかぁ、と唸らされました。長くなりますが引用します。





 わたしはこの「ポストモダン的な」学校の校長役を引き受けながら、教育の根本は「危険と不安の経験に基づく自己省察的な営み」であるべきことを、より確実に、理解するようになりました。近代は、「まとも(正常)さ」という言葉で現実の矛盾と不幸を体系的に選り分け、消し去っていく時代でしたね。(中略) しかし今や、近代は「落伍」することへの恐怖心で維持され、事実上は急激に壊れつつあります。(中略)



 ポストモダン的な状況における学校は、内外に存在する不安と脅威を見えなくする保護膜ではなく、それらを見せながら自らを治めていく、瞑想と訓練の場でなければならないのです。だから、知識ではなく、省察の可能な「経験」が必要なのです。また、自らを癒すことができる音楽が必要であり、演劇が必要であり、デザインする能力が必要なのです。
(前掲書、p.162, p.164)





 就職以来、なかなか読んだ本の紹介ができていないのですが、久しぶりに「この本は伝えたい!」と思う一冊でした。今年度の読書では、石川准『見えないものと見えるもの−社交とアシストの障害学』(医学書院、2004年)と、美馬のゆり・山内祐平『「未来の学び」をデザインする』(東京大学出版会、2005年)が、同様の気持ちを刺激されたものです。ブログでは紹介できていないのですが…。