なぜ『ビッグ・イシュー』が売れないのか?

26thcover.jpg 『ビッグ・イシュー』とは、ホームレスの人々しか販売できない街頭販売雑誌である。その販売現場を見かけたことがある人は多いのではないだろか。雑誌販売という「ホームレスの仕事」をつくることで、仕事に対する前向きな意識の醸成を促し、同時に収入も生み出し、自立を支援するというのが、創刊の目的となっている。



 その『ビッグ・イシュー』の売れ行きが伸びずに困っている、ということは、新聞報道含め、様々なところで言われる。内容が悪いかと言えば、決してそうではなく、創刊時に比べれば、読み応えのある骨太な記事が並んでいる。一冊200円という値段にしては、出来すぎなほどだ。

 

 でも、売れない。なぜだろうか?



 何人かの学生や専門学校生に、「なんで買わないの?」と聞いたら、話しかけるのに抵抗がある、という答えを多くもらった。確かに、私も最初に全く抵抗がなかったかと言えば嘘になるが、その抵抗は越えるに難しい壁というほどのものではなかった。しかし、話を聞いた学生や専門学校生の中では「不審者」に話しかけるのと同様なほどの抵抗感だと言う。



 話を聞いた学生や専門学校生は、明確に「私」と「彼ら/彼女ら」の間に境界線を引き、違う世界の人間として位置づけ、その境界線を越えないようにしている。できるだけ自分とは「関係がない」と自分が「思っている」世界とは関係性をもちたくない、というところなのだろう。



 こうした境界線を引く、他者への共感(empathy)を持たない行為は、「パブリックなこと」を議論する公共圏をやせ細らせる行為に他ならない。問題提起される「パブリックなこと」について、「それは自分と関係ないことだ」と線引きされると、議論の展開はしようがなくなる。



 90年代、社会の「多様化」ということが盛んに言われたが、そうした言説が志向していた「多様なものが(独立して)混ざり合う社会」には向かわず、「多様化」によるセグメント化や島宇宙化といった状況が進行する社会という方向に向かっているように思われる。



 セグメント化や島宇宙化はなぜ起こるのか、なぜ「多様なものが混ざり合う社会」に向かわないのか、そうした問いを立てつつ、いかにして方向転換は可能かを問うていく必要がある。そうでなければ、(繰り返しになるが)「私」と「彼ら/彼女ら」を媒介する空間としての公共圏は存立しえなくなってしまう。答えが今、私の頭にあるわけではないが、今後考えていきたい問いである。



 当然だが、ホームレスはホームレスになりたくて、なっているわけではない。そうさせる社会的な排除のメカニズムがあって、そうなっている。そして、そのメカニズムを少しでも理解すれば、自分がホームレスになりえることは容易に想像できるし、知らず知らずの内に、メカニズムの生成/維持/高度化に加担してしまっている場合があることを自覚せざるを得なくなる。こうした自覚が生まれる機会や環境を整えていくことが、市民活動には求められてくる、と言えるのではないか。そうした活動の積み重ねが「方向転換」を可能とするのかもしれない。



 なお、『ビッグ・イシュー』は、定期購読も可能である。ホームレスのエンパワーメントを考えれば、街頭の販売者から購入することが望ましいが、「抵抗感」がある人は、郵送される定期購読でもいい。少しずつ少しずつ、関係性が結ばれていくことを期待したいし、自分もその努力を続けたい。