「○○を応援しています」という言葉のメタ・メッセージ

 最近、よく「わが社は愛・地球博を応援しています」というメッセージを広告で見かけます。こうした「〜を応援している」メッセージに対しては、多くの人が、企業は「何か社会的に良いもの」を応援していることを提示して、企業イメージを良くしようとしていることを知っており、決して心底応援したくてしているわけではないことを知っています。



 そうした企業の「意図」を私たちは知っているために、企業がイメージアップのために掲げる応援対象は「応援に値する(社会的に良い)もの」、と受け手は考えてしまうことが多いのではないかと思います。最近の「愛・地球博を応援しています」のメッセージ発信は、こうした受け手の「読み」を巧みに先読みした愛知万博のイメージアップ宣伝こそが、ねらいに他なりません。



 愛知万博に対しては、ご存知の通り、常にマイナスイメージが付きまとい続けた博覧会で、そのマイナスイメージを挽回していくことが大手の広告代理店に課せられた仕事であったことは想像に難くありません。(そのためには皇族もフル活用、というところだったと思います) この戦略の一環として、「愛・地球博を応援しています」メッセージを多くの会社に言わせている(つまり、会社側が[宣伝という意味でも]言いたくて言っているのではなく)のではないかと私は考えていますが、一連のイメージアップ戦略は、現在の世間一般の愛知万博への捉え方を見る限り、ある程度の効果を出していると思われます。



 しかし、果たして私たちはそうした広告代理店の画策に踊らされて良いものでしょうか。改めて言うことではありませんが、この本を始め、方々で散々な書かれ方をされている愛知万博は企業が「応援していますメッセージ」を出すほどに「社会的に良いもの」ではありません。私たちが改めてそのように愛知万博に対して、冷静なまなざしを向けていくことが、改めて必要だと考えます。

 

 大手メディアの愛知万博の報道の仕方だけでは、なかなか「冷静なまなざし」を向けにくいところですが、だからこそ市民の側にメディア・リテラシーの獲得が望まれるところです。



 企業が「愛・地球博を応援します」というメッセージを掲げることが、「市民参加を矮小化し、環境を大きく破壊した博覧会を応援します」というメッセージを発信することになるのだ、という「読み」が広く分かちもたれる社会になれば、社会の動きは変わるのではないかと思います。なんと大げさな、と思われるでしょう。確かに今の時点では「大げさ」です。しかし、それが近未来でも、大げさになるか、それともそうでなくなるか、それは私たち一人ひとりのメディアとの付き合い方に左右されるものに違いありません。



[追記]