自分づくり

 今日は、京都の大学「学び」フォーラム in 神戸での業務終了後、すぐに新幹線に飛び乗り、三島へ。御殿場にある国立中央青年の家施設業務運営委員会企画・評価部会の合宿が今日・明日と行われているため、遅れて参加したのでした。



 中央青年の家のこれまでの事業企画や組織運営を総括しながら、事業/運営両面での中期ビジョンを策定する部会ということで、私はともかく、かなり豪華な面々で、青少年教育に関してディープな議論が展開されました。



 どういう若者のどういうニーズに応えていくのか、それは中央青年の家の強みを活かすものか、また、それはどのようなマネジメントで行われるべきか…、このように書くと簡単に見えますが、実際は1泊2日の合宿で、ようやくコンセプトメイキングの大枠ができた、という感じです。



 学校の先生が専門職員として出向してきているのですが、青少年の現状についての指摘は、なるほどなぁと考えさせられるものばかりでした。中でも、「人や物事を批判してしか、自分のポジションを示せない高校生が大半。」との指摘には、考えさせられました。



 言われてみるとそうかもしれません。「あんなのダメだよね。こいつもイケテナイな。」と批判をして、自分がそうではない「何か」であることを示しても、その批判はどういう視点で、どういう位置からなされているかと言えば、余り一貫性もなく場当たり的で、結局あなたが「何ものか」がよく分からないというのは、よくある光景です。



 このブログもまた「批判的な〜」としていますが、こうした道に陥らないように注意しなければなりません。批判理論を展開するフランクフルト学派では「批判の基礎付け」という作業が大きな意味をなしていることも、そのためなのかもしれません。どういう視点で現状の矛盾や問題点を明らかにし、「より良い」未来に向けて知的・実践的模索を試みるのか、そうした批判の基礎となる概念を明確にする作業(=批判の基礎付け)があることで、シニカルな批判ではなく未来志向の批判が可能となるわけです。



 もちろん、高校生の段階で確固たる自我が確立されているわけでもありませんし、あれでもないこれでもないと批判しながら、自分さがし・自分づくりを模索しているとも言え、一様に「なってない!」とは言えません。また、彼ら/彼女らを責める前に、そうした状況に陥らせている教育は、一体何を提供できていないのかを問うべきだとも思います。



 印象論ではありますが、今の高校生の多くは、上述のようにシニカルな態度を示しつつも、同時に、ウォーターボーイズスウィング・ガールズよさこいやダンスのチーム、そうした何か夢中になるものを見つけ、没頭している姿に実はあこがれている、羨ましがっているようにも思えます(そうした指摘も会議上でなされました)。



 健全な批判性が発揮できるようになるにも、「自分づくり」を促せるような夢中になれる体験を提供していくことが、今の教育には求められているのではないでしょうか。自分のもっている力を余すとこなく発揮し、自分の考えを衝突も恐れずにぶつけあいながら、自分を確立していくというプロセスの重要性は、よく教育学でも解かれているところです。



 中央青年の家が、そうしたプロセスを体験できる場になればいいなというあたりで、タイムアップ。ここで紹介したのは議論のほんの一部分ですが、こうした議論をきちんと行って組み立てられる中央青年の家の今後の事業には期待が高まるところです。次は秋にまた部会があります。今回議論されたコンセプトの具体化をどう進めるのか、また、施設マネジメントをどのように見直すかあたりが課題となるはずです。