ゲーティド・スクール

 現在、学校教育現場では「危機管理」(安全・安心の学校づくり)が、大きな課題であるとよく聞く。これは、まちづくりでも同様の動きである。私は、そうした動きが余りに過剰で、このままいけば、非/無寛容な社会、社会的排除が横行する社会をもたらしかねないと、監視社会批判の視座から考えているが、安全・安心の社会をつくろう、という方向性自体には、何ら反論するものではない。



 今日は監視社会批判を展開する暇がないので、それは後日として、こうした時勢に対応して、本日、文科省が安全・安心の学校づくりに向けた第一次指針を発表したことに触れたい(朝日新聞報道)。



 学校を安全・安心な空間とするために、厳重な警戒をするということであるが、それ自体は最もなことであろう。しかし、この指針でも述べられているが、その動きが「地域にひらかれた学校」づくりに逆行するものであってはならない。



 学校が社会とつながっていくことは、子どもが学校をメディアとして社会とつながっていくことにつながるからという理由からの意見であるが、それに加え、地域にひらき、地域の市民と協働で学校づくりを進めていくことが、安全・安心の空間づくりを一層進めるからでもある。



 何より、学校の門を閉ざし、塀を高くし、学校関係者以外が原則として入り込まない空間をつくることは、「もし万が一」の時に、責任を学校教職員が一手に引き受ける構造をつくることになる。学校教職員は忙しいのは、改めて言うまでもないことだが、現実的に考えれば、学校の安全・安心「までも」教職員に「のみ」責任を負わせるのは、不可能だし、余りに酷なことである。

 

 地域で責任を分担していく方向性で考えていかねば、学校は(既に抱え切れていないというのに)「責任の抱え込み」状態を進めてしまう。もちろん、集団責任は集団無責任となりえる危険性もあり、責任体制は明確にした上での連携である。



 今、学校には非難の声が向けられやすい。そうした非難の声をいたずらに向けないことが市民には求められる。市民が、学校と地域をつなげて考えていく発想をもち、学校教育を地域のものにしていく提案を学校にはしていくべきではないだろうか。そうでなければ、今の「空気」は、「ゲーティッド・スクール」を実現しかねない。そんな閉鎖空間に、果たして子どもを通わせたいと思うだろうか。そうではない、と答える市民が多い社会であって欲しい。



※参考リンク

文部科学省が発表した指針「学校安全のための方策の再点検等に向けて」(PDFファイル)